昭和41年年01月10日 月次祭
その身から打ち込んでの信心をしてくれ、付け焼き場の信心ではとれやすい、どうぞ、その身から打ち込んでの信心をしてくれ。その身から打ち込んだ信心を致しませんとですね、第一、神様にご信用頂けませんです。本当にもう、あそこばなおせばいいのに、あそこも改めたらいいのだけれども、こうゆうところが有る、あの氏子は一生懸命、それこそこの事に一生懸命打ち込んでおるからと。ね、例えば、その身から打ち込んだ、しかもこの方一心と打ち込んでおらなければです。
打ち込んだ信心を、その身から打ち込んだ、ね、付け焼刃の信心ではとれやすい、中々良い信心をしておる、本当によい信心の素養は持っておるのだけれども、言うなら神様が不安を感じなさる、不安を感じなさるような信心ではいけん。ニ、三日前でした。朝の御祈念の時に、朝のご理解が終わってご理解が終ってから、吉井の波多野さんがお届けをされるのです。先生今日は本当におかげを頂きました。久大線に乗って見えられる、もう15年続いておる、熊谷さんと二人で毎朝参ってみえられる。
これなんかも、その身から打ち込んでいなければ出来ないことですよね。それこそ皆がどうかあんなさるとですかち、ね、もう本当におかげを頂いてその、有り難し勿体無しが15年間椛目通いを続けさせた事なんです。ね、そういう例えば打ち込んだ信心をさせて頂いておるとゆう事。丁度あの、久富建設の前を通りあわせましたら、久富さんが車を出しておられました。どうぞお乗りなさいちと、それから、乗らせて頂いてからここまでこさせて頂いたというわけなんですね。
それが今日はあの、筋湯のほうへ行きよりますと。あの、筋湯という温泉がありますね。あの山並みハイウエーから筋湯まで、あそこの所を今道路を作っております。もう、大概な人ならですね、大概な人ならば、とても、ああゆう、しかも危険を冒してからあちらに行くのですからね、皆さんご承知のように大変危険な所が多いのです。 ですから、例えば横を通りますなら、とても降りなければおられないですよ。
ちょっとお参りせにゃおられない、本当に親先生によろしゅうともおっしゃらなかった、ですと、まあいいなされんけれども、こうして、久富さんあちらの方へ出られとりますその車に同行させて頂いて車に乗せて頂いたとこういうわけなんです。ね。私もですね、例えて言うならばですね、その身から打ち込んだ信心をしていない人がです、おかげは頂きたい、おかげは頂きたいと日頃願うておる人がです、私は椛目の神愛会の会員でございますという人がです。
そして、おかげを頂きたいという人がです、例えば筋湯へ、しかもここへ自動車を止めながら、そして、降りなかったとゆうなら、私が、気分がよくないでしょうね。どうした人じゃろうかと。ちょいと寄ってお届けして行けばよかとこにと、こう思うのです。ね。ところが私の心の中にですね、そういうことが微塵もないことなのです。あの人らしい、あれでいいのだと。あの人が打ち込んでおるという事をいわば私が、これは惚れすぎかもしれませんけれども、もうこの人は間違いないと信じておる。
それを、打ち込んでおるという事が私が知っておる、椛目に打ち込んでおる。大坪総一郎の信心に打ち込んでおるとゆう事を知っておる。その事を私はむしろ有り難いとこうお礼申させてもろうた。勿論、筋湯行きの事もお届けさせて頂きました。そしたら御心眼にですね、丁度、京都の舞妓さんのような、後ろ姿を頂いて、ね。しっかり信心の帯をせよと仰るがですね、なる程、京都の舞妓さんあたりのあれは、だらりの帯と申します。いかにもだらりのようにある。信心はいわばそげなだらしのないごとある。
けれども結ぶ所できちっと結んであるんだとゆう事。それでその晩、青年部会で堤さんにその事を話したんです。あんた達菊栄会の方達を真似をしたらいかんよと。一足飛びでいったらいかんよと。文男先生にしろ正義さんにしろ、高橋さんあたりにしろ、菊栄会の会員の人たちがです、いうならばみかけはダラっとしたような信心でも決まっておるところは決まっておる。
いうなら私より信じられておる。神様のご信用を受けておるとまでは、私はまだ分からんにしてもです、神様の御信用を受ける前にまず、私の信用をここでは受けなければ本当のことではないという事。それでいてそれで、よいかというというと決してそうではない。舞妓さんの事を半玉と申します。半分の玉だという訳なんです。芸子さんになりますと、一半というわけです。一半になるころにはです、ね、それこそ、日参り夜参りはしなければおられないという信心が生まれてくるでしょう。
それ以前の日参り夜参りとは、いわば違ったものなんです。ね。例えば菊栄会の方達の信心がそれでよいとは思いませんけれどもです、通るところをとおらせてもろうて、きまるところをきまって、いうなら日常生活の上にでもです、信心を生活の上にも商売の上にもお仕事の上にも現しておるという事。それがそのまま、神様の御教えを頂いておる事であり、信心に打ち込んでおらなければその身から、打ち込んでおらなければ出来る事ではない事でございます。
この、お正月、元旦祭に皆さんに申しましたように、私はこの元旦から、七日間の間にそれぞれ、神様から直接御神夢、お夢を頂かせてもらう、お知らせを頂くようにお願いをしておくから、皆さん、心してまあ、本当にあだ夢ではない、本当に神様のお知らせであろうと、自分でも実感できるようなお知らせを頂かねばいけません。そういう、お願いをしておりましたら、もう皆さん本当に、もう本当に神様がいうならですかね、もうめめて食わすように見事にご理解くださってありますよね。
今日はその初夢をね、一つご披露させてもらいましょう。一番初めに私が頂いた、木の太さはこの位でしょう。その枝ぶりのよい梅の木なんです。それにその鉢のようですかね、厚い板で枠がしてある。畳まあ四畳半位のこう枠がしてあるわけなんですね。ところがその梅が段々段々大きくなって、根がはってです、その枠を突き破って、こう押しやるようにしてから、根が張ってあるところのお夢を頂きました。
はあ、これが今年の椛目の信心のこういう現れ方であろうと私は思うた。これに相応しい、本当にうぐいすが来て止るおかげを頂かなければならんのだと自分で思うた。私の母が頂きました、沢山頂いておるのです、その中の二三を紹介しますとね、あの、合楽のお広前が出来ております、あちらの、ずーと大水になっておる、その、大水の中に何十の船がずっとその、合楽のお広前のほうにやってくる。
見るとその中に、いっぱいの貝が積んである。さまざまな貝が積んである。恐らくしじみ貝もあったでしょう、ハマグリもあったでしょう。ほら貝も、中にはあったでしょう。真珠貝のような、貝もあったでしょう。もうありとあらゆる貝が、いっぱい積んである船が、合楽のお広前へお広前へと、大水が入ってきておるそこへ、入ってきておる、お夢であった。それを、ここで亡くなられた、私の弟の御霊やら上滝さんやら、光橋先生やらの御霊様やら沢山です。
まだ他に、その船をかつがつその、金のくさりのようにこうやってもう、大水の事ですから向うに引いてちゃうんですね。だからもう流れんようにというて、こう、くくりつけておられるところを頂かれた。これは、皆さんも一つ一つの貝であることを知らなければなりません。神愛会の一会員であると。皆さんも様々な形をした、姿形の違うような、いうなら貝であるということなんだ。ね。総代会から婦人会まである。少年少女部会まであるように、貝なの。
ね、あちらの、お広前が出来ますとお広前だけで、80枚あります。本当に私ともがです、本気で信心の稽古をいよいよ、思う存分させて頂けれる信心の場というものが、あそこに出来ておる。そこで、ここで皆さんがです、信心の一つ基礎基本になるような信心をさせて頂かなければならない。どういう信心をいうのか。どうぞその身から打ちこんだ信心でなからなければならないということ。そこで皆さんがその身から打ち込んだ信心を一つ検討してみなければならない。
先日、お正月のあくる日から、竜さんが家族挙げて鹿児島の指宿に、自動車で旅行をされた。ね。そして、お土産にあの大きなこんな駕籠にはいってました、葉がこうしとる。あれを見られた時に竜さんが、はぁ椛目のおみやげはこれだと思うた。親先生がいいござった。はばかりながら、しっぽけなしの、信心ではいかんばい。もう、葉ばっかりで身はこげんとゆう、こげな信心をさせて頂こうというてから、先生今日はあの、お取次ぎをして下さいといわれる。
それはもう栄四郎が一人でやっとかっと抱えるくらい。ね。見事な大根ですね。まあだ、あれが葉がこんなしておった。はばかりながら、ね、私はどちらかというと椛目の信心は、はばかりながらのような、気がするものを感じるのです。もういよいよ、今年こそです。一つ身のある信心をさせてもらわねば。身が大きくならにゃ、心が大きく豊にならなければなりません。ね、
次に母が頂いておるお夢の中に、男の総代さん方に、その、桂先生と初代の桂先生です、そうすると、桂先生と私とが短冊を一枚一枚差し上げておる。その、短冊にですね、今年こそ、花も実もある信心をさせて頂きましょうと書いてあったと。今年こそ花も実もある信心を頂きましょうと。これは、総代ということは、総代以下という事だと私は思うのです。昨日、昨日はもう日曜日で賑わいました。
私は昼下がる時に何十人お取次させて頂きました。いよいよ、本当にもう、お昼頂くのは2時頃でした。朝の五時からずーとお取次ぎのしどうしでした。そして昨日特に目立ったことは、もうほとんどが、九州中の人たちが集まってもらっていたという事でした。もうこれは、鹿児島と宮崎が来ていないだけですねというくらいに来ておりました。しかもそれが、一同に集まっておるという事なんですね。
神様のご都合だ椛目的な私は一つの現れだとこう思う、その事を神様に御礼をもうさせて頂きよりましたら、神様から椛目の花だという事を頂きました。それはそうですね、お広前にきちっとした人たちがです、ここで、ご理解を頂いておられる。もうそれは、やっぱりちょっとした壮観です。皆家族連れでですね、自家用車でやってきています。本当にやはり椛目の花だと思うのです。
してみると、皆さん椛目の身だという事になる。県外からも椛目椛目と何かがある。なにかがあるから皆なが来るのだと、そんなことで座って話しておりましたら、次々とお参りしてきますのが、善導寺の森光さん、福岡の松岡さんの息子さんとか、本当に眼の中に、空気銃の玉が入った、それが一週間で、しかもお夢の中で手術して頂いておかげを頂いた。少年時代に、の時のおかげを受けた話、今話しよったのはこの人の嫁さんですよというような風に実際をもって見せて下さるような状態である。
もう森光さんと言や、お父さんが盲腸がいよいよ難しいというお届けに来た時に、丁度ここで井戸掘りがありよった。ね。あんたもどうせかえったっちゃお父さんが難しかろうごたるなら、枕もとにおったっちゃどうするか。今日は一日御用を頂いていけ。というて井戸掘りの御用を頂いていったことがあった。そしたら、帰ってからおかげを頂いた。それから今日まで、まだ80いくつ、長生きのおかげを頂いておる。 もうこの人の事だけでも、どれだけおかげ頂いているか分からんと結うお話、
山口県の中林さんがいう人がお参りしておった。ね。生まれつき目が見えない。それを、椛目のごひれいによっておかげを頂いて眼が開いた、その子が3つになって、七五三の奇麗な着物を着せてから、遊んでおるところをカラー写真にとってから、私の引き出しにでも入れといて下さいと、もう医者が絶対開かないというような、神様のおかげで目が開いた。そういう人たちが集まった。しかも、そういう神様の御神徳の何ていうですかね、もう本当にびりびりするような御神徳をまのあたりに見せていただくような、その、思いがしておるのです。皆さんが。
そういう雰囲気の中でおかげをこうむらせていただいたのですけれども、それは、椛目の花だと神様が仰る。ね。そんなら皆さんは椛目の実だと。そこで、椛目の実をやはり、椛目の実であるその実をどういう意味であるかとゆう事を研究させてもらうということがです、ね、その身から打ち込んだ信心、いわゆる、先生に信じられる私になっておるかどうかと私は思うのです。
この頃、ある人が先生の悪口を言っておりましたよと。あのとにかく悪口を言われようがどうしようが、あの人なら間違いなかと思われるような人、そこに私と皆さんがなんとはなしに、つながりというか、そういうようなものを感じられるような、私とあなた方にならなければ、私とつながっておる神様とのつながりがあろうはずがない。そうでしょうが。私と神様のつながりがあり、そして、私と皆さんのつながりがある。どうぞその身から打ち込んだ信心をさせてもらわなければならない。
今年こそ花も実もある信心をと仰るところの信心をとこう、仰るところを見ると、今年こそと言われるところを見ると、まだ、花はあっても実がないという、私どもの目から見ればそうでもないのですけれども、神様の眼からご覧になればそういうことになってくるのではないでしょうか。それこそ、正義さんの、だらりの帯じゃないけれども、形はだらりの帯のごたるけれども、ぽっとひきゃあぽっと解けるようなものじゃなかろうか。ちょっと何かあると迷うような信心じゃなかろうか。ちょと、ひっぱられるとポロポロッと解けるような信心じゃなかろうか。
これでは、いつまでたっても私は神様の御信用どころか、取次の先生の御信用はいただくことが出来んと私は思う。今日は私、朝のお取次ぎを終らせていただいたのが8時半でしたでしょうか、9時ちょっとすぎから先程、今日は大体は13日か4日頃までかかる京都の見本市に秋永先生が行っておられたんです。ところがそんな重大、椛目の重大な問題が、控えておりますからもうとにかく、今日は何で帰ってみえられたか知りませんですけれども、おそらく飛行機で帰ってみえられたのだと思うのですけれど、ね、とてもその身から打ち込んでおらなければ出来ることではないですね。
昨日、高橋さんが月例祭の今日はあの、お供えを持ってまいりました。それと同時に、福岡と善導寺の方から、学院の手続き書類を今日中に出せと言うて来ておるのだけれども、今日は日曜日でどうしても出来ないと。それで、明日の朝行こうと思うたらそんなら私が、夕べはあの、あちらは、総会をして、もう一晩中賑わう、食べ物、お寿司屋さんですから、もう一晩中賑わっておる、おそらく、一生懸命御用を頂いておられるに違いないのです。ですからその、今日も朝から見えるということは、やはり、ちょっと、難しいことだったろうと思うのですけれども、今朝早く来ていただきました。
そして今日はもう、終日病院でした。九時丁度一番初めから一番最後4時半までかかりました。もうそれも今日出かけに私、今日病院行きのことを神様にお届けさせてもらいましたらね、あのお徳のことを乗り物と仰る、自動車なら自動車に乗っていくような、その、時もあってよいのだけれども、今日はね自転車に乗って行く気持ちと神様が仰る。踏まんと倒れると仰る。自転車に乗って、だから一生懸命踏まなければ。人間心というか人知の限りを尽くさなければ今日は倒れるということ。
だから今日は人知の限りを尽くさせて頂いて、何時間になりましょうか、朝の九時から、夕方の4時半まで本当にくたくたになるほどに疲れました。もう私がだいたいが医者嫌いでしょう、ところがその、神様のご守護の中に、お守りの中に、あるなあと思うのです。私が行かなければならないという時に久留米の野口さんが見えまして、そして丁度、あの、それで、病院においでなられるなら、あちらの院長先生は存知上げておるから、紹介状を書きましょうと言う。
それで、高橋さんが連れて行って下さろうと言うて、しておるところへ、丁度小野先生が、そんなら僕が知っておりますから僕も一緒に同乗いたしましょうと言うて、ですから、そういう院長先生達の2人の口ぞえやら紹介状やらがありましたから、それこそ大事に大事にもうそれこそ私の体中から、初めて今日は色々検査をして頂きました。脳だけでも3回撮りましたかね、それから血液をとるのに4回とりました。
もう水一滴飲まれないのです、レントゲンを撮って下さるのですね。もう本当に、2日がかりでも出来ないような事を今日は1日で先生方協力して下さいましたから出来ました。それが、もう、なんて言うですかね、やっぱ、思いもかけない病気があるのですね。私は、胸が悪いかと思うたら、胸はいっちょん悪くない。ところが、思いもかけないところが悪か。もう、例えていうならば、眼科から耳鼻科から全部行かんならんです。鼻も調べてもらわなんなら、耳も調べならんです。
それがあんまり忙しいですから、見ていてから、あーどうもその、本当の事を書いておられない、しかし、これだけは分かっておる。というのは私こちらは全然聞こえないのです。左の方の耳が。それも、聞えるごたる風に書いてある。ね、これは、おかしいから、実は、こちらは聞えんですから、なら一時間ばっかり待ってくださいというて、もう疲れておる中にまた、一時間待って再検査をしていただきました。
そしたら、やっぱり全然聞こえません。片一方が遠いというくらい。皆さん、ここで、私のにこっちから物言われても聞こえんのですから。そういう風にですね、いわば人事の限りを尽くさせていただくと同時に、神様の何とも言えない、椛目に沢山のお医者さんがおるわけじゃないでしょう。行こうという時に、富永先生が、行こうという時に小野先生がみえてから口ぞえをしてくださる紹介状を書いてくださるとゆう事。
だから、その先生のそれがありますから、おろそかに出来ないものですから、もう実にていちょうに診察を頂いて参りました。大体は、先生の体はですね集団生活には向かない、向かないとゆうより出来ないと。けれども、まあ、御本部のほうでは手がなかったっちゃ、足がなかったっちゃ、その、受け入れられるのですから、ね、まあ、どうせ行くことは行かなければいけないのでしょうけれども、只今申しますようにそういうご守護の中にあるのだという事。
私がここを1年放しましても、そうゆう中にああゆう事があっておるに致しましても、やはり神様のご守護があるのだと。皆さんがその身から打ち込んだ。なら委員長の場合でも、高橋さんの場合でもその身から打ち込んだ。打ち込んだ信心をさせて頂くところにです神様のおかげをいただかないことはないと確信する。そのその身から打ち込んだ信心というのは、あの人が、おって頂くから大丈夫だと、ね。
というような、信心、それには本当に私ともに実のない実のない、自覚に立たせもろうて、今年こそはと実のある信心を本気でさせていただこうという願いを持った信心。ね。それが、総代さんに下さったところの神様の願いであった。それは総代さん方をはじめ皆の者に対することであったろうけれども、婦人総代さん方には又、その別の、色紙ではない、短冊なんです、こう、下さっておる。
それを何と書いておるかと、「今年こそ、水晶のような信心をさせて頂きましょう」と書いてある。してみると、皆さんの信心は水晶のような信心ではないということになる。澄み切っていないのだと。濁っておるのだと。ね。どういうようにしてこれを清らかに美しいものにしていくか、どういう信心をさせて頂いて実のある実意丁寧神信心をさせていただくかというような事にです、焦点をおいて、濁っておる私。実のない私、そこから、立ち上がらなければいけない。実のない私なのだ。
椛目のご造営ならご造営のことでどれだけ自分に実があるかと。どれだけの祈りが実がこもっておるかと。どれだけの、実のある御用が出来ておるかと。ね。それは私共出来ているようで出来ていないのは、これが濁っておるからだと。今朝方、私ご心眼に頂きました、丁度、塩原戸津子の合い腹・・・のようなところであった。どういう事だろうかと思いましたらね、その、ブタから引っ張りまわされておる、ご心眼。次には犬からひっぱりまわされておられる。ね。
次には牛から引っ張りまわされてござるというようなご心眼であった。ね、ここんところは皆さんよく分かるように、馬というのは自分の心の中に有る卑しい心を表現してくださる。牛というのは家のめぐりと表現してくださる。こうならなければいかんのだと思い自分の汚い、卑しい心が私を引っ張りまわしておる。神様から、ひっぱりまわされなければならないのに、ね、牛から引っ張りまわされたり、馬から引っ張りまわされたり、犬とは煩悩といわれる。
その、犬から引っ張りまわされたり。ブタとは汚いものというような私の心の中にある汚い心がです、本来の私ともの信心、本来のこうしなければおかげを受けられないと分かっておりながら、やはり、汚い心に引っ張られて、汚い心の方へ動いておるというような事ではです、折角信心をさせて頂いておる値打ちはないじゃないかと。どうぞ今日も神様のお引き回しを頂いてと、お届けをするならば、本当に神様のお引き回しをいただかなければいけないじゃないかと。
神様がお引き回そうと思し召すのですけれども、汚い心があっては汚い方へ行きよる。我情我欲が強いものだから我情我欲のほうへ引っ張られておるから神様も使いようにも使えないというような事ではいけない。そこでブタの自覚であり犬の自覚である。馬の自覚であり牛の自覚を持ってです、ね、汚い自分、濁っておる自分、ね、実のない私だと、総代さんをはじめ本当に、ここにもう一遍実のない総代達であるということをです、もう椛目の最低の信者だというところから立ち上がって頂く信心です。
ね。総代だからと言って信心が出来ておるから総代になっておるわけじゃない。いうならば、そういうめぐりが大きい。誰よりもそういう大きな馬を持ったりブタをもったり、しておるから、救われ難きその、人達たちを、特別の御用に使うておってくださるというような、頂き方が私は間違いがないと私は思うのです。ね。今年こそ、水晶のような信心を目指させてもらう。限りなく美しくならせて頂ましょうじゃないですか、本気で実のある信心をさせていただこうじゃないですかという合言葉の中にです。
椛目の信心が中心である私がいなくても、やはり、私の祈りというのは皆さんの身近にあると言う事。ね。そしてです中心がいなくてもです、あのご造営が出来た。先生がいなくてもです、椛目の信者を見てみろと。あれが椛目の信心は、あの信心こそ、お道の真の信心であると皆んなに認めて頂いて、そして、椛目のようなおかげをどこの教会にでも、頂いてほしいと私は思うです。
ね。青年会の麻生さんが頂いております。ね。大きな、泉のようなところで魚を皆さんが取っておられる。信心のない方。ところが、いっぱいそれが濁っておる。だから探り探りとっておる。ところが、麻生隆司さん自身が眺めてみるとその、泉がです澄み切っておると。そして、そこに泳いでおるのが、素晴らしい鯉がゆうゆうと何匹も泳いでおるというお知らせを頂いておる。
ね、私が濁っておる自覚というのは、いや私は濁っておらんというてもです、例えば、あの人ごたる根性の悪い人が、あのような人が人の足元ばかり言う時にはですね、それは、濁って見えておると。信心のない者の姿なのです。人のふりみてわがふりなおせとか、人の不行状を見て、わが身の不行状になる事とかという風に教祖が教えておらるように、信心の無い者の見たところでは、いわば濁った水である。
だから、探り探りでなければ魚は取れんのだけれども、信心のある者がそれを見る時にはそれが清まっておる。私の周囲には皆んな、あの人も良い人この人も親切な人と見えてこなければ駄目。ね。だから、自分の周囲に意地の悪い人がおったり、自分の周囲にずるい人が見えてくる時には自分の心の中に、そういう濁ったものがあるのだと悟らせて頂いてです、自分の周囲にあの人は仏様のような人じゃ、神様のような人じゃというような、中にあった、例えば今日私があちらに参りました時のようにです。
もうとにかくどうして私くらいなものに、ね、先生かたはみんな、私の為に協力して下さるか、本当に、みんな私のために親切にして下さるか。その親切の中にあるそれは今日は私は極楽をして来たという事なの。なるほど今日は自転車を踏むような、1日でございましたから疲れてまいりました。ね、血を採られたり小便を採られたりしましたから、疲れはいたしました。気分的にも。けれども、そういう神様のそういう深い思いの中に今日1日を過ごさせて頂いたという事がです、有難いのです。ね。
、お参りの皆さん、いよいよ今年こそ椛目の信心がで、もう。御神夢、初夢をご披露いたしますと沢山皆さんが頂いてお届けをしておられます。その二三の代表的、しかも皆んなが頂だかなければならないという、総代さんがいただかれたというような、そ、初夢を、又私が、又は母が頂いておるお夢だけを皆さんにご披露申しましたけれども、それ、椛目の総会員の上に求め給うところの神様の、今年こそこういう信心であるという、めざしを焦点を教えて下さっておるように、思うのでございます。
そこのところを、ようとみなさん行とされまして今年こそ、本当の信心をいただきましょう。なるほど信心さへ頂いておれば私が明日ころっとなくなっても、いわば大丈夫だということ。私がおらなければ、ということではいけない。ね。おかげを自分のものにするのではなく銘々が信心そのものを、皆さんのものになさっていなければならない。ためにはです、どうぞその身から打ち込んだ信心をさせて頂いて、ここでは先ず私自身を、それに皆さん。そして、神様に信じられるところの、おかげを受けて頂かなければ、ならないと思うので御座います。
もうそれからあの、只今の、そういうような事でございます。今日は私また。病院の書類を久保山先生が準備しておってくださいましたから、帰りました。その書類が全部揃うてから、善導寺にまいりました。そして、あちらで夕方遅く疲れきっております時に、高橋さんも疲れきっております。「高橋さん、あんたそれを書いて下さい」それを書かなんならんあちらで。ところが先生今日は私疲れておりますから、今日でなくてよいのなら明日にして頂きたいと私申しました。
そんなら、そげんでよかたい。その書類を全部持って帰ってから、明日しておいでと、けれどもあしたから夕方から御本部参拝をするからと言う事でございますから、どうぞ、親先生が御本部参拝をされますから、お初穂をお供えなさる方は、明日の朝の御祈念までに、お届けをいただきますようにお願い致します。どうぞ、先ほど委員長がお話ししておりました、13日会のお話しあいもございましょう、ね、結局けれどもね、皆さんが心構えを作ることに、今求められておると思うのです。どうぞ、皆さんもそういう意味合いにおいてから、13日会の出席をよろしくお願い致します。
どうぞ。